関が原の戦い
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概要
戦年月日 慶長5年9月15日(1600年10月21日)
交戦場所 美濃国関ヶ原
指揮官/戦力 徳川家康/104,000 毛利輝元・石田三成/82,000
勝敗 東軍の勝利
関ヶ原の戦いが起こる時代背景
慶長3年8月18日(1598年9月18日)、豊臣秀吉が死去したのを合図に一人の大名が天下取りに名乗りを上げた。関東に250万石と言われる領地を持ち五大老の一人でもある徳川家康である。
秀吉は、死に際して家康・前田利家を始めとする五大老、石田三成を始めとする五奉行に実子秀頼の後見を託した。しかしほどなく徳川家康を中心とする一派とそれを快く思わない一派の間に主導権争いが始まる。
豊臣秀吉が存命中の頃から豊臣政権内部では、数多の戦にて前線で戦い軍事面で貢献する「武断派」と行政など戦場以外の分野で貢献していた「文治派」の対立抗争が存在したが秀吉の死で一気に明るみに出た感じであった。
秀吉死去直後から徳川家康が福島正則を始めとする「武断派」の諸侯たちに接近し、秀吉生前に誓った取り決めを破りだした。
一方「文治派」の石田三成を始めとする諸侯は、豊臣政権の重鎮である前田利家を頼り、利家は徳川家康を押さえ込んでいた。しかし翌年、前田利家が病死したことで家康は、再度天下取りの動きを激しくする。
まず武断派の加藤清正・福島正則ら七将が石田三成の襲撃を画策しそれを家康の仲介で収めたとし、三成を居城の佐和山城に蟄居させる。
このことで豊臣政権の中枢には、家康に対抗できる実力者は居なくなった。ほどなく家康は、前田利家死去後に家督を継いだ加賀の前田利長に対し家康を暗殺するという、陰謀があるとし加賀征伐を発表する。これに対し利長は、家康に弁明及び人質に母を出し絶対恭順をする。
さらに家康は大阪城に入城し独断にて諸侯へ加増や転封を実施した。これは、程なくおこるであろう戦を見越しての政策であり、時を同じくして有力大名と家康の子女の婚姻を活発化し関係を強固にしている。
そして会津若松の上杉家を次の標的に決めた家康は、上杉家に翻意ありとし、前田利長と同じように上杉景勝に恭順を迫るが上杉側は、これに反発し挑戦的な態度で家康を批判した。(直江状)
これに対し家康は、上杉家征伐のため東北・関東・北陸の諸大名に出陣を命じた。
ほどなく豊臣秀頼から兵糧と金が下賜されたことで大義名分を得た家康は、自ら兵を率い上杉征伐に向かうのである。この時、佐和山城に蟄居していた石田三成が打倒家康を掲げ動き出した。三成は、大阪城に毛利輝元を総大将に迎えると反徳川の諸侯を集め挙兵宣言を行うのである。
(一連の行動は、家康が仕掛けた罠で三成もそれを知りながらあえて罠にはまっているようである)
西軍決起の報告は江戸城に居た家康の下に届けられたがかまわず家康は、下野小山に兵を進める。小山で西軍による伏見城攻撃開始の報を聞くと会津征伐に従軍した諸大名を招集し今後の方針を軍議にかける。(小山評定)この時家康は、
急進派の福島正則に豊臣秀頼に害は与えない・三成は秀頼を操っていると説き正則に評定の席で真っ先に家康に味方すると表明させ、この一声で迷っていた豊臣恩顧の大名はほぼ全て家康に味方すると誓約をした。
そして山内一豊が居城を家康に提供したことにより東海道の諸侯が全てそれに続き、家康は安全に引き返す事が可能になった。
三成迎撃で評定が決すると諸大名は、福島正則の居城である清洲城に向けて出陣、家康は息子である秀忠に榊原康政や大久保忠隣ら重臣と共に約3万8千の兵を預け中山道より進軍を命じた。
そして自身は江戸城にて留まった。この間三成率いる西軍は、伊勢・尾張の諸城を陥落させ東軍先発部隊が清洲城に集結するとの報を得て大垣城に集結させた。三成は当初尾張と三河国境付近で東軍を迎撃、背後より上杉・佐竹軍と挟撃することで勝利をする目算であったと言われる。
家康は、諸侯に西進させた後自らは江戸城に約一月留まっている、この間家康は諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍の調略による切り崩しを図ったとされこのことが関ヶ原の勝敗に大きく関わってきたとされる。東軍諸将が西軍の城を次々と落とし、
岐阜城を落としたのを知ると家康はここで東海道にて西上を始める。
家康は、ほどなく本陣に入り中山道を進んだ秀忠を待つが秀忠は、途中の上田で真田昌幸の攻略をし損ね、結果本線に間に合わなくなってしまう。
決戦前夜の9月14日夜に家康と三成はそれぞれ関ヶ原に軍を進め15日の決戦の日をむかえるのである。
西軍方は三成の拠る「笹尾山」、宇喜多秀家の拠る「天満山」、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元が布陣する南宮山のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を敷き東軍を迎え撃った。当日の早朝は、ひどい濃霧で隣の軍もわからないほどだったとされる。
そんな中、先陣をきる約束の福島正則を井伊直政隊が抜け駆けの形で西軍の宇喜多隊に向けて発砲しこれが合図で両軍の戦闘が始まった。地理的に有利な西軍は
、戦況を有利に進めここで小早川秀秋隊・毛利秀元隊・長宗我部盛親隊が横と背後から突撃すれば西軍の勝利のはずであった。
しかし結果は、毛利・長宗我部らは、内応済みの吉川広家に進路をはばまれ戦闘ができず、ここで内応の約束があった小早川秀秋に対して家康は催促の威嚇射撃を行い、小早川隊は東軍に寝返ったのである。これにより傍観していた他の西軍諸侯も次々と東軍に寝返り西軍は大崩を起こし、
これによって家康本隊を合わせた東軍による総攻撃が始まり、西軍諸侯は壊滅・敗走し天下分け目の決戦は、数時間で東軍の勝利に終わるのである。
関ヶ原の戦いの影響
この戦いは文字通り天下分け目の決戦である。関ヶ原での西軍による鶴翼の陣とは、まさに万全の陣構えで明治の世に軍事顧問として来日したドイツの少佐は関ヶ原における両軍の布陣図をみて、即座に西軍の勝利を断言したという。
しかし結果は、東軍の大勝利に終わった。なぜであろうか?答えは、鶴翼の陣の両方の翼が腐っていたのである。翼が腐っていたら鶴は落下してしまう。実際の戦闘をする前に7割は、東軍の勝利が確定していたのである。これは、徳川家康の諜報活動の賜物に他ならない。
家康は、豊臣政権の中枢を破壊したような人目につく大胆な政策の裏で、ひっそりと諸侯との間で内応の約束を取り付け、確実に勝利を確信するまで我慢し実行したまでである。
この戦いの前後で一番の変化は、豊臣家の扱いである。数百万石あった豊臣家の所領をわずか数十万石にして一大名にしてしまったのである。続けて西軍に与した諸侯は、所領を没収・大幅な減封となった。
それ以上に絶妙なのが東軍に与した外様大名に対して大幅に加増して江戸からできるだけ遠くに追いやり、能力のない大名にわざと大封を与え自ずと自滅させ国を治める力がないとし後から所領を没収する。徳川譜代大名を重要な土地に置き外様大名を監視させた。
これを鉢植え政策と言い以後250年の江戸幕府を通じて外様は、幕府の中枢に入ることは許されなかった。
さらに家康は、全ての論功交渉が終わった後、即座に幕府を開き自ら征夷大将軍につき、数年であっさりと息子秀忠に将軍位を譲っている。これにより家康は、豊臣秀頼に政権を返還するつもりがないことを公然と表したのである。
この時には、一大名しかない豊臣家にはなすすべがなく、豊臣恩顧の大名も分断されてしまい従わざる得ない。家康は数々の政策で外様大名の牙を抜いていったのである。
おそらく一連の動きの大半は、関ヶ原の戦いの前に家康の頭の中にすでにあり、それを次々と実行したのだろう。見事としか言いようがなくそこには一部の隙もない。
大胆且つ細心である徳川家康が実行したからこそこの戦いによって250年もの平和の世の中が訪れたのである。
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