藤堂高虎
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略歴
弘治2年(1556年)1月6日、近江犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。藤堂氏は先祖代々、
在地の小領主であったが、次第に没落し高虎が生まれた頃には一農民と変わらぬ状態であった。
はじめ近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕え、天正元年(1573年)に浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、
次いで磯野員昌の家臣として仕えた。やがて信長の甥・織田信澄の家臣となり天正4年(1576年)に羽柴秀長(豊臣秀長)に仕えて3000石の所領を与えられた。
秀長のもとでは中国遠征、賤ヶ岳の戦いなどに従軍し抜群の戦功を挙げたため1万石の大名となる。
天正15年(1587年)の九州征伐でも武功をたて、2万石に加増される。天正19年(1591年)に秀長が死去すると、養子の豊臣秀保に仕えるがまもなく秀保も死去したため、
豊臣秀吉の直臣となり5万石を追加され、伊予板島(現在の宇和島)7万石の大名となる。豊臣秀吉死去後には、徳川家康に急接近し関ヶ原の戦い
で東軍につき活躍し、伊予今治20万石に加増移封された。
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げ、慶長13年(1608年)に伊賀一国と伊勢8郡22万石に加増移封され、伊勢津藩主となる。
大坂冬・夏の陣に出陣し戦後32万石に加増される。家康死去後、秀忠に使え寛永7年(1630年)10月5日に死去。享年75。
藤堂高虎とは
藤堂高虎は、農民と変わらぬ境遇から伊賀・伊勢2国の領主まで上り詰めた男である。藤堂高虎は、略歴でもわかるように徳川家康に仕えるまで実に7回も主を変えている。
しかも羽柴秀長に使えるまで僅か5年余りの間に5回も主を変えているのである。
これを批判する人も多いが当時、家臣が主を選ぶのは当然で20歳前後の若者が将来性のない主を見抜き続けた事は驚きである。しかも主を変える度に石高を上げている事から高虎が有能な武将だったと言うのは一目瞭然である。
そんな高虎も豊臣秀吉の弟である秀長の下で腰を落ち着ける。この時豊臣秀吉は、長浜城を与えられた位の大名でしかなくその弟秀長は、秀吉の補佐役なのだからその時点で秀長の実力を早々と
見極めたのだとしたら恐るべき眼力である。秀長の元で幾度の戦を経験し秀長も高虎を認めると、高虎を右腕として重宝するようになる。
この主従関係は、秀長が死去する天正19年(1591年)まで続き、後を継いだ豊臣秀保にそのまま仕えている。その秀保がまもなく死去すると高虎は、出家してしまう。
高虎にとって秀長という人物は、全てを教えてくれた大恩人だったというのが良くわかる。
この出家を知り高虎の才を惜しんだ豊臣秀吉は、彼に宇和島7万石を与え自らの直臣としたのである。しかしまもなく秀吉が死去してしまうことにより、
徳川家康に次の天下人の器を見た高虎は、家康に急接近をして関が原の戦い後、伊予今治20万石の大名にのし上がるのである。
徳川政権下で家康は、高虎を非常に重宝し外様大名でありながら譜代大名の格を与えたり、江戸城の改修等の功績により彼を伊賀・伊勢22万石に加増する。そして彼は、
ついに大坂の陣での戦功により32万石の大大名になり従四位下の官位を賜るのである。家康の死後、秀忠、家光の代まで生き死去するのである。
総評
管理人の藤堂高虎像は、戦功からもちろん勇猛な武将であったと思うがそれよりも有能な官僚の方の印象が強い。彼は、豊臣秀長が死去するまで右腕となって働いていたことは、
前項にも書いたが秀長という人物がそれなのである。
秀長は秀吉が駆け出しの頃からそばにあり、秀吉政権の内政の柱、文字通り大黒柱である。高虎は、その秀長の薫陶を受け続けたのだから内政の方が得意であったのは、
想像に難くない。そして高虎が今日でも有名であることに、彼の築城技術のすばらしさがあげられる事は明白である。
彼は、居城であった宇和島・今治・伊賀上野・津のほかに江戸城を始め多くの著名の城の縄張りを行っている。石垣の反りを重視する加藤清正
とは違い、石垣の高さを重視する(現在でも伊賀上野城にてうかがえる)築城が有名である。彼が津32万石まで立身した理由の一つに卓越した築城技術をもっていたと推測する。
彼は、「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と語ったと言うが7度主君を変えるのが重要ではなく、各々の主君で自分の実力を最大まで高め、
彼はもっと高みを欲したがゆえに必然的に主君変えを繰り返したのではないか?それ位、自分を高めねば一流とは言えないと言っているように思える。
彼が高みを欲したことは、器が深い豊臣秀長に約20年仕え、死去した後(秀長への義理で跡継ぎに仕えたが)この人を超える人はいないと思い極めて出家したこと
(管理人の考えであるが)で明白である。批判を受ける要素は、確かにあるが戦国時代の大名らしい生き方をした人だと思う。
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